赤十字の旗ひるがえる里 佐井村

三上剛太郎

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三上家八代目
三上剛太郎と赤十字

1869年(明治2年)、三上家の八代目として生まれた剛太郎は、15歳で東京に出て、三田英学校(現・錦城学園高等学校)へ入学し、23歳で読売新聞の記者となりましたが、25歳の時に父が亡くなったことをきっかけに、東京医学専門学校・済生学舎(現・日本医科大学の前身)へ入学。

医術開業試験に合格後、佐井村へ戻り医業を引き継ぎました。その頃佐井村では、ジフテリアや結核が流行しており、その撲滅のため剛太郎は北里伝染病研究所へ入学するなどして研究を続けていましたが、明治37年2月に日露戦争が開戦し、剛太郎も軍医として従軍することになりました。

1905年(明治38年)1月、満州・黒溝台における戦いのさなか、剛太郎医師の包帯所がロシア・コサック騎兵に包囲されました。その時剛太郎は、手元にあった三角巾2枚を縫い合わせて正方形としそれに軍用赤ゲット(毛布)を切り裂き、十字に縫い付けて赤十字旗を作り掲げたところ、騎兵は包囲を解いて立ち去り、数十名の負傷兵が救われました。

それから約60年後の1963年(昭和38年)、スイス、ジュネーブで開催された赤十字100周年記念国際博覧会にて、負傷兵を救った名誉ある「手縫いの赤十字旗」として紹介され、世界の人々の感動を呼びました。
終戦後、佐井村へ戻った剛太郎は、人力車や小型ボートで巡回診療も行い、村の保健衛生を担いました。

剛太郎は多岐に渡る功績が讃えられ、昭和35年に保健衛生功労者として青森県褒章を、昭和37年には佐井村名誉村民第1号を贈られました。96歳でこの世を去った剛太郎が残した「手縫いの赤十字旗」は、その仁愛の精神を示すものとして今も大切に保管されています。

EPISODE1
仁愛の医師誕生

1869年(明治2年)11月15日、三上剛太郎は、代々医家である三上家の8代目として誕生しました。

1884年(明治17年)、父子恵に伴われて上京。三田英学校(現錦城学園高校)に入学し、医師への第一歩を踏み出しました。

ところが、在学中に文学者森田思軒の影響を受け次第に文学へ傾注し、読売新聞社社会部記者になりました。

1893年(明治26年)、父が亡くなり再び医師への道を歩みました。翌年1月、済生学舎(日本医科大学)に入学し、医術開業免許状を取得し、同年佐井村に帰村して三上医院を開業しました。

日露戦争終結後再び佐井村で開業し、幾度も上京を繰り返し、国立伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)で医療技術の習得に努めながら地域医療に尽力しました。

EPISODE2
生命を救った手縫いの赤十字旗

1905年(明治38年)1月、日露戦争の時、三上剛太郎は満州(今の中国北東部)へ軍医として従軍しました。ロシア軍に包囲され、今まさに攻撃を受けようとしていた仮包帯所に「手縫いの赤十字旗」を掲げて、多くの負傷者の命を救いました。

この赤十字旗は三角巾2枚で四角にし、赤毛布を切り裂き、十字をつくり縫い合わせたものです。

1963年(昭和38年)、スイスのジュネーブで開催された赤十字100周年記念博覧会で「手縫いの赤十字旗」が展示され世界の人々に深い感動与えました。

戦場で作られた赤十字旗は、人類のヒューマニズムを基にしてつくられた「ジュネーブ条約」の生きた証として残されています。

EPISODE3
死ぬまで勉強

医学・政治学・哲学・宗教・歴史・文化などあらゆる分野の書物を読破した剛太郎。80歳を過ぎてからは少年時代の夢であった「レ・ミゼラブル」を原語で読むため辞書を片手に独学でフランス語をマスターした。「死ぬまで勉強」は剛太郎の口癖でした。

 

そして今、私たちは…

佐井村では、三上剛太郎の仁愛の精神を受け継ぎ、心の中にある赤十字の旗をひるがえし、人にやさしくともに生きる社会を目指し、「赤十字の旗ひるがえる里づくり」を推進してまいります。

三上剛太郎の生涯

三上剛太郎 略年表

1869年
(明治2年)
11月15日、生まれる
1875年
(明治8年)
佐井小学校(同年11月3日創立・岩清水家宅)へ入学する
1883年
(明治16年)
函館で勉強に励む
1884年
(明治17年)
5月、三田英学校(現錦城学園高等学校)へ入学する
1888年
(明治21年)
読売新聞社に入社し、社会部記者となる
1894年
(明治27年)
1月、済生学舎(現日本医科大学)へ入学する
12月18日、医術開業前期試験に合格する
1895年
(明治28年)
6月9日、医術開業後期試験に合格する
6月29日、医術開業免許状を授与される
7月、佐井村に帰村し開業する
1897年
(明治30年)
1月、伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)で細菌学を研究する
1902年
(明治35年)
3月31日、村医となる
1903年
(明治36年)
10月、国立伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)で伝染病研究方法の講習に従事する
1904年
(明治37年)
4月4日、盛岡連隊徴兵検査に従事する
9月1日、歩兵第三一連隊補充大隊へ配属され、予備役見習医官となる
1905年
(明治38年)
1月7日、陸軍三等軍医となり、第八師団衛生隊付きとして日露戦争に出征する
1月27日、剛太郎は、満州黒溝台三尖包包帯所において手縫いの赤十字旗を掲げる
2月14日、正八位を授与される
1906年
(明治39年)
4月1日、従軍記章、勲六等単光旭日章、功五級金鵄勲章を授与される
9月1日、弘前衛戌病院勤務となる
1909年
(明治42年)
陸軍二等軍医となる
1915年
(大正4年)
4月、帰村し、開業する
11月10日、大禮記念章を授与される
1928年
(昭和3年)
従七位を授与される
1940年
(昭和15年)
紀元二千六百年祝典記念章を授与される
1956年
(昭和31年)
米寿の記念として佐井小学校・佐井中学校へ図書費10万円
1957年
(昭和32年)
紺綬褒章を授与される
1960年
(昭和35年)
保健衛生功労者として青森県褒章を授与される
1962年
(昭和37年)
2月11日、佐井村名誉村民となる
1963年
(昭和38年)
赤十字銀色有功章を受賞する
1964年
(昭和39年)
10月27日、「人生百歳を満たず、常に千載の憂いをいだく」という言葉を残し永眠する(享年94歳)
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